英語も話せない元馬術選手が、UCLAを卒業し、リクルートでデータの民主化に挑む理由

蔦田 慎史/株式会社リクルートライフスタイル ネットビジネス本部 事業開発ユニット
株式会社ブログウォッチャー プロダクトマネジャー

キャリアにおいて、他者と比較してしまうことは誰にでもあるだろう。自分で明確な軸を持ち、選択を重ねる。その重要性は理解しつつも、決して容易なことでないはずだ。

2017年にリクルートホールディングスに新卒入社した蔦田慎史は、これまでずっと、“自分軸”で意思決定を下してきた。中学校を卒業後、1年間日本全国を放浪。そこで出会ったサラブレットに“一目惚れ”し、馬術の世界へ。高校生活と並行して腕を磨き、全日本選手権で4位に入賞。

その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へと進学し、卒業後はリクルートへ新卒入社。現在は、傘下の合弁会社で300テラバイトに及ぶ行動データを用いて「データ活用の社会実装」に取り組む 、株式会社ブログウォッチャーのプロダクトマネージャーを務める。

「大抵のことは、努力でどうにでもなる。だから、後悔しない選択の方が大切」だと蔦田は考える。自分の“好き”を追求し、活動域を定めず活躍する彼に、“自分軸”で生きるキャリアのつくりかたを聞いた。

PROFILE

蔦田 慎史

株式会社リクルートライフスタイル ネットビジネス本部 事業開発ユニット
株式会社ブログウォッチャー プロダクトマネジャー

高校時代に馬術に没頭し、卒業後はプロの馬術選手として活動。全日本4位に入賞し、世界一を目指す。
その過程で「経済」と「ビジネス」の仕組みに関心を持ち、学術的に経済を学ぶことを志し、渡米。UCLAとOSU入学。経済学とComputer Scienceのダブルメジャーで卒業。2017年に株式会社リクルートホールディングス入社後、株式会社ブログウォッチャーに出向。データサイエンティストから、プロダクト組織のリーダーを務める。
執筆・登壇実績:日経ビックデータ連載、Data Summitなど登壇。

「自分のことは自分で決めるよ」——中学を卒業後、自分探しの旅へ

蔦田さんはリクルートに入社する以前、プロ馬術選手として活躍していたと伺っています。まずは、馬術の世界で活動していた理由について、お聞かせください。

蔦田 慎史(株式会社ブログウォッチャー プロファイルパスポート事業部 プロダクト開発本部 技術開発部 グループリーダー)

蔦田「馬に一目惚れしてしまったから」に尽きます。少し長くなりますが、そこに至る経緯について、お話しさせてください。

そもそも僕は、授業を真面目に受けたり、決められた時間じっと座っていたり、そうしたルールを守ることがすごく苦手でした。小学校の頃からずっと、「学校はつまらない場所だな」と感じていて、授業を抜け出して図書館にこもるなど、今思えば親泣かせの子だったと思います。係活動だけが唯一楽しくて、「生き物係」として生き物の世話をすることが、学校に行くモチベーションでした。

中学生になってもそのスタンスは変わらず、学校ではなく学外に楽しさを求めるようになりました。そこで出会ったのが、囲碁です。地域の囲碁教室に通い、自分の好きなことを極める“プロフェッショナル”たちに出会ったことで、自分が何に興味を持つかを理解できました。

こうして歳を重ねるうちに、自分が本当に心惹かれることに夢中になって、突き詰めることこそが、僕が望む生き方だと気づいたんです。馬術にたどり着いたのも、「プロフェッショナルになりたい」という気持ちと、心惹かれることをかけ算をした結果でした。

好きなことを追い求めた結果、馬術のプロ選手になられたんですね。馬術との出会いについて、詳しく教えていただけますか?

蔦田中学校を卒業後、一人旅をしているときに、馬に出会いました。

中学2年生の頃から「義務教育が終わったら、自分が好きなことを探す旅に出よう」と決めていて、すぐには高校に進学しなかったんです。母親は「頼むから高校に進学してほしい」と毎日のように泣いていましたが、当時は「義務教育が終わって自由になるのに、わざわざ勉強を続ける方が珍しい」と思っていました。

最後は、母親がよく言っていた「よそはよそ、うちはうち」という言葉を逆手に取り(笑)、「自分のことは、自分で決めるよ」と、ふらっと自分探しの旅に出ています。

馬との出会いは、旅路で青森県を訪れたときのことです。牧場を颯爽と駆け巡るサラブレッドの姿に、一目惚れ。直感的に「馬の世界でプロを目指したい!」と思い、そのまま乗馬の練習を始めてしまいました。

中学校を卒業して一人旅に出たり、親元を離れて乗馬の練習を始めたり、なかなか“ぶっ飛んだ”意思決定をしているように感じます。周囲と違う進路を選ぶことに、不安はありませんでしたか?

蔦田不安がなかったわけではありません。一方で、「本気で勉強すれば、多少のブランクは取り返せるだろう」という自信もありました。興味のないことに嫌々取り組んだところで、結果は出ません。だから、まずは馬術で世界一になることに全時間を注ぐと決めたんです。

ただ、馬術を学ぶのにはお金がかかります。中学校を卒業したばかりの僕には金銭的な余裕がなく、住み込みで働いたりもしたのですが、それでも十分な資金は得られませんでした。

そのことを親に相談したところ、「高校に進学するなら、馬術を学ぶお金を支援する」という申し出を受けたんです。僕はそのオファーを快諾して(笑)、学校に通いながら乗馬クラブで腕を磨く高校生活を過ごしました。

5年先の未来が決まっているなんて、まっぴらごめん

馬術の世界から離れたきっかけについても、お聞かせください。

蔦田「今挑戦すべきは、馬術ではなく仕事である」と、キャリアについて考えるきっかけがあったんです。

高校を卒業後、馬術のプロ選手として競技活動をする傍ら、所属する乗馬クラブで仕事をしていました。馬を調教したり、販売したり、競技以外の役割も担うようになったんです。

そこで、働くことの楽しさを知りました。仕事を始めてから2年目で、30ヵ所ある営業所のなかでトップセラーになり、売上管理や先輩たちのマネージメントを任せていただいています。僕は自分が思っている以上に、仕事が得意だったんです。

また同じ時期に、全日本選手権で4位に入賞することもできました。プロとして、社会人として、ある程度、乗馬の世界で実績を残すことができています。

そのタイミングで「これから乗馬で世界一を目指すのも選択肢の一つだし、全く別の仕事に挑戦してみるのも選択肢の一つだ」と、キャリアについて真剣に考えました。悩みに悩みましたが、乗馬で世界一になった後に何をするかが描けなかった。「むしろ今は仕事に興味がある」と気付き、馬術から一時離れることを決めたんです。

大学に進学したのは、働く前に経済学や組織論を学びたかったから。乗馬クラブで働いているときに、会社独自の組織論や経営方針に戸惑った経験があったので、資本主義の世界における「正解」を事前に知っておきたいと考えました。そのためには、学問を学ぶ必要があると感じたんです。

進学先に海外の大学を選んだ理由はありますか?

蔦田「どうせやるなら、一番を目指そう」というのが信条なので、本当は東京大学に進学しようと思っていたんです。でも、全く勉強をしてこなかったので、少なくとも1年間勉強をしなければいけませんでした。

また卒業するには4年間在学する必要があります。つまり社会人になるためには、少なくとも5年はかかる。僕はもっと早く社会に出たかったので、その5年が、どうしても我慢できませんでした。

そのことを乗馬クラブのお客さんに相談したところ、「海外の大学なら、飛び級制度がある。実力次第で、期間を短くできるよ」と教えてくれました。「そういうことなら」と、その場でアメリカ行きを決めたんです。当時は無知だったので、その先に待っているトラブルを想像することもなく、「短期間でたくさんのことを学び切ろう」くらいにしか思っていませんでしたね。

ただ、アメリカに行ってから、「自分は全然勉強ができない」と知ることになります。入学前にプレスクールへと足を運んだところ「君は卒業までに7年かかる」と言われてしまいました。「まずは英語教室に通って語学を学び、並行してその他の科目も勉強する必要がある。順調にいけめば、7年間で卒業できるよ」と。

そこで僕は「アメリカに来た意味がない!」と焦り、毎日のように相談室に通いました。最初は相手にしてもらえませんでしたが、繰り返し相談にいくものだから、最後はあちらが折れて「4ヶ月後に飛び級の試験ある」と教えてくれたんです。つまり、試験に合格すれば、4年間で大学を卒業できる権利が得られると。

そこから猛勉強して…?

蔦田電子書籍を片手に、とにかく分厚い教科書を丸々理解するまで猛勉強したら、試験に合格することができました。ただ、アメリカの大学は、成績が良くないと進級できないので、その後も勉強漬けの日々が続きましたね。
最初の1年は、語学が勝敗の分かれ目にならない数学をとにかく勉強し、数学の教科書から英語を学び…と、これまでのツケを取り返す毎日でしたね。その甲斐もあり、専攻していた経済学の単位は3年生で取り終え、最後の1年間は余裕を持って副専攻のコンピューターサイエンスを学べました。異なる専攻分野で学位を取得するダブルメジャーで卒業しています。

どうせやるなら、世界一を目指そう。僕がリクルートを選んだ理由

勉強漬けの毎日を過ごされたんですね。苦痛に感じることはありませんでしたか?

蔦田苦痛どころか、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。知識が増えるごとに物事の見え方が変わりましたし、過去の成功・失敗体験の背景も理解することもでき、知識と経験が有機的につながっていく感覚がありましたね。

英語ができない状態でアメリカに来たこともあり、卒業する頃には「大抵のことは、努力でどうにでもなる」という自信もつきましたね。それまでもずっと「どうせやるなら、一番を目指そう」と思って生きてきましたが、実体験を持って、「乗馬も仕事も、世界一を目指せる」と確信しました。

リクルートをファーストキャリアに選んだのも、「世界一を目指せる環境だから」というのが一番の理由です。世界一の企業で働くよりは、世界一を目指す企業で働く方が自分の肌に合うだろうと思いました。

入社を決めた経緯について、もう少し詳しく教えてください。

蔦田もともとはUCLA在学中にインターンをしていた会社に入社しようと思っていたのですが、卒業旅行ついでに立ち寄ったキャリアフォーラムで、リクルートの社員に「一緒に世界を変えよう」と声をかけられたんです。

代表クラスの方が「世界を変える」と宣言することは往々にしてありますが、現場で働く社員にまでその熱意が伝播し、浸透していることはそう多くありません。現場クラスの人たちが、会社のビジョンを自分の言葉で語っていることに感銘を受け、入社を決めました。

現在は、どのような業務に従事されているのでしょうか。

蔦田電通とリクルートのジョイントベンチャーであるブログウォッチャーに出向し、プロダクトグループのマネージャーをしています。ブログウォッチャーは、およそ300テラバイトに及ぶ人の行動履歴・位置情報データを運用するソリューション企業です。広告ビジネスに始まり、現在はソーシャルメディアや飲食店のマーケティング支援を行うなど、多種多様な業界と提携をしながらデータ活用を推進しています。

自治体や教育機関と連携した動きをしているのも特徴の一つです。たとえば、名古屋大学との共同研究。災害時に人はどのように避難するのかを可視化し、避難ルートを発表したり、救急車の配置場所をコンサルティングしたりと、社会貢献としての事業も展開しています。

蔦田さんが考える、ブログウォッチャーの事業の最大の魅力はなんですか?

蔦田「データの民主化」を推進するのと同時に、データを活用したビジネスを展開していることですね。自社が持つデータを活用してビジネスに応用している企業は数多くありますが、持っているデータを軸に商売をする企業は稀有。僕たちは、いわばデータ活用を社会に実装することで利益を上げる企業です。

世の中には、国土交通省のコンサルティングをする会社や、特定の業界専門のマーケティング会社など、ニッチな事業を展開する会社がたくさんあります。それらの企業は企画力に長けていて、面白い施策を打つことが得意です。でも、データを保有していないというだけの理由で、実現が不可能になることも多々ある。しかし僕らと連携することで、そうした制限を取り払うことができます。

また現状だと、データを持っている会社に就職しなければ、データを活用したビジネスは手がけられません。しかし、ブログウォッチャーの事業が拡大すると、どこにいても、誰でもデータに触れる世界がつくれるんです。データの民主化を推進する役割を担うことには、大きなやりがいと意義を感じますね。

ほしい未来は、自分でつくる——学生に伝えたい「自分を信じる」ということ

若くして活躍する蔦田さんですが、成果をあげることや活躍することに、年齢は関係あると思いますか?

蔦田「若いから仕事ができない」ということはありえないと思います。自分の頭で考える力と経験さえあれば、若くても活躍する人材になれるはずです。

僕が現在、マネージャーとして仕事ができている要因は、ひとえに経験値があるからだと思っています。囲碁教室に通っているときに教わった「大局を見る」という考え方や、馬の世話をしながら感じた、性格や調子に合わせてマネジメントをする手法が、今に活きている。

また、異国の地で過ごした経験も大きかったと思います。アメリカ的な考え方や扱える言葉が増えたことで、思考の幅を拡張することができました。

つまり、活躍するビジネスパーソンの条件の一つに「経験の豊富さ」があると。

蔦田そうだと思います。一般的に、歳を重ねることで仕事ができるようになりますよね。その理由はつまり、経験値が増えていくからだと思います。そうと分かれば、中学生の頃からアルバイトをしたり、高校生からインターンに参加したり、なんでもいいですが、経験を積み重ねたほうがいいと思います。

蔦田さんは今後、どのようなキャリアを考えているのでしょうか。

蔦田僕の仕事をする上でのスタンスは“Trying to Be Useful”です。抽象的ですが、人の役に立つ仕事をし続けたいと思っています。これまで職種や肩書きでキャリアを考えたことはないですし、きっとこれからもありません。

こうしたスタンスになった背景には、留学中のある出来事が関係しています。友人が体調不良を起こし、頭を抱え込んでいたので、救急車を呼ぼうとしたところ「救急車は保険が下りないから、学費が払えなくなる」と言われました。そのとき、自分がどれだけ恵まれた環境に生きているかを痛感したんです。

その日から今日まで、富や機会を分配できる大人になりたいと思って生きてきました。その気持ちは、インタビューを受けている今も変わりません。

ほしい未来をちゃんと描いて、自分がその未来をつくる当事者であることを信じ抜いて、生きていきたいと思っています。